『啓蒙の弁証法』 ホルクハイマー、アドルノ

啓蒙の弁証法』は、フランクフルト学派のホルクハイマー(1895‐1973)とアドルノ(1903‐69)によって、第二次世界大戦中の1939年から1944年のあいだに共同執筆されました。

2人ともユダヤ系ドイツ人だったので、第二次世界大戦当時は、ナチスによる迫害を避けるために、アメリカに亡命していました。

したがって、本書は亡命先のアメリカで、彼ら自身が迫害される立場にいる中で、執筆されました。

その後、内容に若干の修正が加えられ、1947年にアムステルダムで出版されました。

何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか

彼らは、序文でこのような問いかけを行ったうえで、本文において徹底した理性批判を展開していきます。

「啓蒙」とは

啓蒙とは、神話や宗教の世界観から脱出し、理性的に自分たちの世界を認識しようとする運動のことをいいます。

啓蒙は、狭い意味では、18世紀のヴォルテール(1694‐1778)やディドロ((1713‐84)などがフランスで開始した思想運動を指します。

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しかし、『啓蒙の弁証法』においては、古代文明の時代からすでに始まっている人間の理性的な世界認識・脱呪術化への方向性、といった広い意味で使われています。

  • 脱呪術化は、社会学者マックス・ウェーバー(1864‐1920)が提唱した概念です。
  • ウェーバーは、世界の歴史を、人々が神話的・宗教的な世界観から解放され、社会を合理的に組織化していく過程として捉えていました。

「弁証法」とは

ヘーゲル=マルクスにおける「弁証法」のとらえ方

ヘーゲル=マルクスにおける弁証法の基本は、「」(テーゼ)→「」(アンチテーゼ)→「」(ジンテーゼ)の三段階による発展です。

ある主張(テーゼ)と反対の主張(アンチテーゼ)が相互に対立することで、双方の長所と短所が見えてきて、より高い段階へと「止揚」(アウフヘーベン)され、テーゼとアンチテーゼが「総合」されたもの(ジンテーゼ)が現れてくる、という考え方です。

ヘーゲルやマルクスは、物事は「止揚」され、「正」と「反」が「総合」されることによって、より高い段階に移行し、歴史は進歩していくと考えました。

ヘーゲルは、「精神」を中心にして物事は発展するという観念的弁証法の考え方を示しましたが、マルクスは、「物質」を中心にして物事の発展がおこるとする唯物論的弁証法を主張しました。

『啓蒙の弁証法』における「弁証法」のとらえ方

『啓蒙の弁証法』では、弁証法における「総合」ではなくて、「反」を重視します。

より高い段階に「総合」が到達し、歴史は進歩しているようにみえるが、実は「反」も拡大しているのではないか。

人間が自然を合理的に管理しようとすればするほど、それに対する自然からの反発が強まり、逆に人間社会を脅かしているのではないか、ということを問題にしているのです。

『啓蒙の弁証法』の核心

『啓蒙の弁証法』は、神話的・宗教的世界観から脱出しようとする啓蒙的な脱呪術化の運動が、逆に、近代的な神話ともいうべきファシズムという運動をもたらしたのではないか、ということを主張しています。

ホルクハイマーとアドルノは、理性はもともと、人類の進化や社会の進歩を約束するものではなく、「自己保存」を目的として「自然」を支配するための「道具的理性」である、ということを暴いています。

理性は、恐ろしい「外的自」を合理的に計算・分析することによって、コントロールすることを可能にしました。

「自然」の中には、人間そのものも含まれます。近代になると、自分自身の中のさまざまな感情や欲望などの「内的自然」を抑圧することによって、「同一な自我」を確立しました。

しかし、「内的自然」を抑圧しすぎると、人間は人間らしさを失い、自然は野蛮な反文明的現象として噴出し、啓蒙された文明は新たな野蛮に逆戻りしてしまうのです。

たとえば、ナチスの蛮行は、まさに「理性」の名において支配され、「人間らしさ」を失った人間の愚行だったわけです。

オデュッセウス論

ホメロスの『オデュッセイア』には、魅惑的な歌声で船員を惑わせるセイレーンという怪鳥が登場します。

オデュッセウスは、セイレーンの誘惑から逃れるために、部下たちに耳栓をさせ、自身の体は船のマストに縛り付けさせました。

こうすることで、オデュッセウスは、セイレーンの歌声を聞きつつ、難所を逃れることができました。

ウォーターハウス「ユリシーズとセイレーン」(1891)

『啓蒙の弁証法』では、オデュッセウスについて以下のように分析します。

オデュッセウスは、客体としての「自己」を保存するために、「外的自然」を支配する前に、まずは自らを支配する必要があります。

つまり、オデュッセウスは、客体としての自分をマストに縛り付けさせ、セイレーンの誘惑を断ち切ることによって、自らを事物のように合理的にコントロールすることが可能となります。

「内的自然」が欲望する現在の充足を抑圧することに、「道具的理性」の合理的な特徴があるのです。

オデュッセウスが、自らを事物のようにコントロールできるようになったことによって、同様に「外的自然」である部下たちをも、事物のようにコントロールできるようになります。

事物として捉えられるようになった「外的自然」(部下たち)は、「道具的理性」のはたらきによって、オデュッセウスの「自己保存」のために労働するように仕向けられてしまうのです。

このような社会的労働を行う場面では、自らの自己保存を達成するために支配する者と、支配される者の双方が、現在の充足を抑圧し共同作業を行っているのです。

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