宮崎駿『出発点』(徳間書店 1996) 宮崎作品の奥深さがわかる本

出発点』(徳間書店 1996)は、映画監督の宮崎駿さんのエッセイや企画書、講演、対談等を寄せ集めた本です。1996年に出版されました。

本書の内容は、映画の企画書や日本社会論、教育論、アニメーション論、手塚治虫論など多岐にわたります。

ここでは、宮崎監督が影響を受けた本について語っているた部分を、いくつか紹介させていただきます。

ナウシカのモデル

宮崎駿監督は、『風の谷ナウシカ』の主人公ナウシカの名前の由来について、以下のように述べています。

ナウシカは、ギリシャの叙事詩オデュッセイアに登場するパイアキアの王女の名前である。私はバーナード・エヴスリンの『ギリシア神話小事典』(社会思想社刊 現代教養文庫 小林稔訳)で彼女を知ってから、すっかり魅せられてしまった。(『出発点』P429 )

オデュッセイア』は、ホメロスの叙事詩の一つで、ギリシアの英雄オデュッセウスがトロイア戦争後、イタケ島に帰郷するまでに体験した10年余りの漂流の旅を描いた冒険物語です。

オデュッセウスがその帰郷の旅の途上で、命からがら漂着したのが、王女ナウシカの住むスケリア島でした。

ナウシカは、血まみれの姿で上陸してきたオデュッセウスに対して怖れを抱かず、自ら彼の傷の手当てをおこない、歓待しました。

ギリシア神話小事典』の中でナウシカは、多くの求婚の話をことわり、琴や歌を愛し、森や水のニンフたちのなかですばらしい速さで駆け回る、空想的な女性として描かれています。

宮崎駿監督は、そのようなするどい感受性を持つナウシカに、とても魅力を感じたようです。

〔関連記事〕 ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』 あらすじ

そして、『風の谷のナウシカ』の主人公ナウシカには、もう一人モデルがいたそうです。

ナウシカを知るとともに、私はひとりの日本のヒロインを思い出した。たしか、堤中納言物語にあったのではないかと思う。虫愛ずる姫君と呼ばれたその少女は、さる貴族の姫君なのだが、年頃になっても野原をとび歩き、芋虫が蝶に変身する姿に感動したりして、世間から変り者あつかいにされるのである。(P430)

『風の谷のナウシカ』の中でナウシカは、人間や動物だけでなく、王蟲などの巨大な虫をも愛する、まさに「虫愛づる姫君」として描かれていますが、そのモチーフは、『堤中納言物語』の中にあったのです。

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私の中で、ナウシカと虫愛ずる姫君はいつしか同一人物になってしまっていた。

こうして風の谷の王女ナウシカのイメージが誕生したのでした。

藤森栄一の『かもしかみち』

宮崎駿監督の愛読書のひとつが、藤森栄一(1911~73)の考古学エッセイ『かもしかみち』(1946)です。

藤森栄一は、長野県諏訪市出身の考古学者です。在野の考古学者として、考古学をやさしく解説した本や、随筆や自伝を著し、多くの読者を魅了しました。

藤森栄一は、八ヶ岳山麓における遺跡発掘調査を踏まえて、1950年代に「縄文農耕論」を唱えました。

日本での農耕のはじまりは弥生時代のイネ作からだとされていた。その”常識”をかれは破ったんですね。縄文時代ってのは、それまでいわれてたように飢えたヤバン人がうろうろしていただけの時代じゃない。(P260 )

近年の考古学の発展により、縄文時代に農耕がすでにおこなわれていたことが明らかになってきていおり、藤森栄一の先見性が再評価されています。

深山の奥には今も野獣たちの歩む人知れぬ路がある。

ただひたすらに高き高きへとそれは人々の知らぬけわしい路である。

考古学の仕事はそうしたかもしかみちにも似ている。(藤森栄一『かもしかみち』序文)

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藤森栄一は、映画『となりのトトロ』のサツキとメイのお父さん、草壁タツオのモデルであると言われています。

藤森姓は、長野県の諏訪地方に多い苗字で、建築家の藤森照信さんやオリエンタルラジオの藤森慎吾さんも、諏訪地方の出身です。

中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』

宮崎駿監督は、京都大学の植物学者、中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』に大きな影響を受けています。

『栽培植物と農耕の起源』を手にしたのは、まったくの偶然である。探せばいつかは出会うものだとか、運命の出会いとか、言葉を飾るまい。読み進むうちに、ぼくは自分の目が遥かな高みに引き上げられるのを感じた。風が吹き上きぬけていく。国家の枠も、民族の壁も、歴史の重苦しさも足元に遠ざかり、照葉樹林の森の生命のいぶきが、モチや納豆のネバネバ好きの自分に流れ込んでくる。散策するのが好きだった明治神宮の森や、縄文中期に信州では農耕があったという仮説を唱えつづけた藤森栄一への尊敬や、語り部のある母親が、くりかえし聞かせてくれた山梨の山村の日常のことどもが、すべて一本に織りなされて、自分が何者の末裔なのかをおしえてくれたのだった。ぼくに、ものの見方の出発点をこの本は与えてくれた。歴史についても、国土についても、国家についても、以前よりずっとわかるようになった。(P267)

中尾佐助は「照葉樹林文化論」を唱えました。照葉樹林は西日本から台湾、華南、ブータン、ヒマラヤに広がる植生です。

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照葉樹林地帯では、たとえば、焼畑農業、モチ食、納豆、鵜飼い、漆器などの文化的な共通点を持っていると言います。

日本では、西日本を代表する自然林が照葉樹林東日本を代表する自然林が落葉広葉樹林となっています。

照葉樹林は、葉が分厚く光を通さないので、森林の中は薄暗く、ジメジメしているのが特徴です。

一方、落葉広葉樹林は、食料が豊富で林の中は比較的明るいのが特徴です。

映画『もののけ姫』では、アシタカが暮らしていた東北地方の蝦夷の村は落葉広葉樹林地帯、サンが暮らす西日本のシシ神の森は照葉樹林地帯として描かれています

『風の谷のナウシカ』に出てくる粘菌の森=腐海も、照葉樹林をモチーフにしています。

まとめ

本書に掲載されている宮崎監督の対談や直筆の文章を読むことで、あの壮大なアニメーションや『マンガ版 風の谷のナウシカ』の世界がどのように構築されていったのかを、垣間見ることができます。



本書を読んでいると、宮崎駿監督の情念に感染して気持ちが前向きになってくるので、ものの見方が狭くなってしまいそうな時や気持ちが落ち込んだ時などに、折に触れて読み返しています。

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