デイヴィッド・ヒューム(1711‐76)は、客観的な世界の存在や心の存在を認めない、徹底した経験論を展開しました。
ヒュームの生涯
1711年、ヒュームはスコットランドのエディンバラに生まれました。
1723年、エディンバラ大学に入学し、法律学を学びましたが哲学以外に興味がわかず、1725年に退学し、その後は自宅で哲学研究を行いました。
1739年~1740年、主著『人間本性論(人性論)』を出版しました。同書はのちに高い評価を得ることになりますが、出版当初はほとんど反響を引き起こしませんでした。
以後、文筆家として成功するために、大衆向けの書き方をした著作を出版するようになりました。
1741年~1742年、『道徳・政治論』を出版しました。
1752年出版の『政治論』は、イギリスだけでなくフランスでも名声を得ました。
1754年~62年にかけて『イングランド史』を出版し、大きな反響を呼びました。
1763年、ハートフォード伯の招請により駐仏大使館の秘書官となりました。パリではダランベール(1717‐83)やディドロ(1713‐84)と交流しました。
1766年、前年に知り合ったジャン=ジャック・ルソー(1712‐78)とともに帰国しました。もっとも、ルソーは、半年後にヒュームに絶交を宣言をしてフランスに帰ってしまいました。
ヒュームの経験論
ヒュームの経験論は、ロック(1632‐1704)、バークリー(1685‐1753)の路線を受け継ぎ、論理的に極限まで突き詰めました。
ヒュームは人間の心に現れるすべての表象を「印象」と「観念」に区分しました。
印象とは、人間が外部から受ける感覚のことです。そして、この印象がどこから来るのかについては、全く説明することはできません。
観念とは、印象が消えた後に、残った記憶や想像によって再現された感覚のことです。
観念はすべて印象に基づいているので、結局は、あらゆるものは印象から生み出されたものです。
ヒュームは、知覚されたもののほかに、客観的な世界は実在しないと述べ、バークリーが実体と認めた心・精神さえも、知覚の束にすぎないものとして実在を否定しました。
「知覚の束」にすぎない心の内容はたえず変化するので、不変の自我も存在しないことになります。
さらに、原因と結果の結びつきである因果関係・法則も、習慣的な連想から生まれた信念に過ぎないと説きました。
ヒュームが因果法則を否定したことは、のちにカント(1724‐1804)の心を覚醒させ、因果法則の先天性を悟性のカテゴリーに求めるカントの理性批判哲学が形成されるきっかけとなりました。
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